Studio A.D.S.

おススメのマンガや好きなバンド、美味しいものから役立ちそうなことまで発信していきます。

実写版『咲-Saki-』に見る、二次元美少女実写化のハウツー

 

こんばんは、椎名ロビンです。

最近はTwitter等のニュースを開くと、頻繁に漫画作品の実写化決定のニュースを目にすることが出来ます。ジョジョハガレンなど人気原作を使った実写化映画も控えていますが、過去にいくつも失敗扱いされる実写化があったせいか、実写化に対する意見はネガティブ寄りな意見が多いように思います。

 

やはり「二次元の絵面を三次元で再現するなんて無理」という想いを抱えているファンが、Twitter等のSNSを見ている限りでは大変多いようです。

「二次元特有のカッコイイorカワイイ見た目のキャラクターを、三次元にするのは無理では?」というキャスティングに関するものから、「あの非現実的なアクションを一体どうやって三次元にするんだろう」という動きに関するものまで、不安視される要素は多岐に渡ります。

 

一方で、そういう不安を抑えやすい原作というのは、世の中に沢山あります。
非現実的な動きをしておらず、キャラクターデザインも奇抜でない作品なんかがそうですね。学園モノとかが大体これに当てはまって、概ね無難な出来になっていると思います。

しかし、にも関わらず、実写化するにはハードルの高い作品、即ち前述の非現実的な描写が多く、派手な色の奇抜な髪型等の現実に居たら浮いてしまうようなキャラクターデザインの作品が、実写化されるケースが後を絶ちません。

 

そんな中、ヘタに実写化しようものなら間違いなく失敗作のレッテルを貼られてしまいかねない要素を孕みながらも実写化され、その完成度と再現度の高さから原作ファンの多数に支持された作品があります。

咲-Saki-です。

 

ドラマ・映画『咲-Saki-』公式ビジュアルガイド

 

いやまあ他にもあるでしょうけど、そっちを語るとブログのタイトル詐欺になりますからね、今回は咲-Saki-の実写版が支持された理由について、考察したいと思います。

と、いう出だしで書いてた記事があったんですが、実写版咲が凄すぎて上手く言語化できずに放置してあったんですよね。

この度めでたく円盤が出とことですし、まあ上手く言語化出来てないんだけどめっちゃいいんですよこれっていう熱量だけでも伝わればいいかということで、特に改変せず当時書いてた記事をそのままアップしてやろうかと思います。

円盤発売記念の名の元に、最近更新頻度落ちてたのを何とかするため、面倒臭いから文章そのままやったれってことですね。

 

映画のネタバレを含むため、閲覧にはご注意下さい。

いやまあこの記事公開時点じゃもう円盤出てるんだしあんまりネタバレもクソもないんだけどね……

 

 

咲-Saki-とは? 

まず、咲-Saki-という作品を知らない方に、どんな作品なのか簡単に説明しましょう。咲とはヤングガンガンにて連載中の、ガールズ麻雀ストーリーです。

麻雀漫画と言われるとやたら命を賭けたりする信念と命がかかった熱き男達の物語みたいなものを連想しがちだった所に、突然彗星のように現れた美少女だらけの健全爽やか部活動青春譚は、従来の麻雀漫画ファン以外にも広く受け入れられています。

麻雀好きが唸るレベルの闘牌が描かれているにも関わらず(筆者は麻雀上手くないので何とも言えない)かといって、麻雀を知らねばストーリーに付いていけないといったこともなく、他の本格闘牌麻雀ものと比べると麻雀を知らない人間への敷居はとても低い作りになっています。

ヒカルの碁における碁と同じ」と言えば、何とか伝わるでしょうか。

ありそうであまりなかった“まるでお金を賭けない健全な部活麻雀もの”ということもあり、麻雀を題材にした作品でありながら『青春モノ』『部活モノ』としても読者に好まれ、また部活モノにつきものである“二次創作をするファン”が大量につきました。

そうして、2度のアニメ化多数のスピンオフが描かれ(スピンオフもアニメになった程の人気)更にはゲーム化などがされている、ヤングガンガンの看板作品なのです!

 

そんなわけで、咲-Saki-美少女たちが贈る爽やかな部活麻雀モノなんですね。

そして二次創作も盛んである、と。

要するに、実写化するに辺り抜擢されたキャストは前提として美少女であることが大事な要素の一つであり、そこを外すと顔をしかめるファンが出てくるタイプの作品なわけです。

 更に言うと、少年漫画らしさも持ち合わせている作品でもあり、派手で格好いいエフェクトが飛び交ったりします。麻雀漫画でもよくある「次にツモる牌がわかってるようだ……!」みたいなソレを“能力”として定義しており、キャラクター毎に得意な確率の偏りや読みが分かりやすいようになっています。

そのため、普通に卓に座って麻雀を打つだけの作品と較べて、幾分画面が派手だし現実離れしているというわけですね。もっとも映画化されている“県大会”では、さほどそういうキャラクターや戦いは多くはなかったのですけれど(それでも天江衣や原村和がいる)

 そんなわけで、咲-Saki-とは、忠実に再現することが大変難しく、しかしその努力を怠ると原作ファン敵に回しかねない、言ってしまえば非常に面倒な原作なんですね。にも関わらず、ファンの大半がその出来栄えを褒め称えています。

「再現度が凄い!」という称賛の声を多数聞きます。

実写化発表時はまさに阿鼻叫喚であったというのに、です。

 

キャラクターの“再現度”とは?

 実写版咲-Saki-が成功した理由なんて沢山あって語り尽くせないのですが、今回はその中の一つ『再現度が非常に高い』という部分を紐解いていきたいと思います。

 そもそもに、気軽に原作ファンは「再現度」とのたまうけれど、一体『再現度が高い』とは一体どのようなものを指すのでしょうか?

勿論その言葉通りに捉えれば『原作のキャラクターそのままのビジュアル』であり、『雰囲気や性格等々あらゆるものが原作通り』であることを指すのでしょう。

ですが、敢えて言い切ります。

そんなこと、まあほぼ100パー実現しません不可能です。

実在の俳優等をモデルにしているキャラクターならば別かもしれませんが、そうじゃない二次元キャラクターの場合、そのまま三次元に持ってくるなんてことは不可能です。

どちらが良い・悪いとかでなく、単純に二次元のキャラクターと三次元を生きる人間とはまるで別の物なのだから、これはもうしょうがありません

美少女という概念一つとっても、二次元上で美少女とされるキャラクターの顔面のパーツバランス実在の美少女の顔のパーツのバランスとじゃ異なってくるでしょうしね。

ましてや、所謂“萌え作品”のキャラクターに至っては、二次元だからこそ許されているのであり三次元でやると痛々しくなる動作や見た目であることが少なからずあります。

そうなると、無理矢理忠実に動いても、二次元の時に受ける印象とガラリと変わってしまうということが起こり得る上に、無理して二次元キャラクターをそのまま再現しようとしても、むしろ痛々しい結果に終わってしまう未来が想像に難くないワケです。

勿論、再現度再現度とうるさいファン達も、そんな結果を求めているわけじゃないでしょう。

つまり、求められている『再現度』とは、愚直に二次元をそのまま三次元に持ってくる行為ではないということになります。

まあ、中には原作に右向け右の忠実な再現度を求めてる人もいるのかもしれませんが、そもそも二次元におけるあれこれをまるっと全てそのまま再現出来たとしても、原作の完全再現ならば、別に三次元にせずとも最初から二次元のままでアニメにでもしてればよかったじゃんという話ですからね。

 

 “再現”のための“改変”とは

愚直なまでに二次元を三次元に持ち出そうとしても無理。
かといって、まるで違う形にして三次元に持ち出すと、それはそれで『再現度』を求める声に反してしまう。

ではどうすればいいのかと言うと、これはシンプルな答えで、『ある程度の原型を保たせながら、三次元に合わせて改変をする』です。

 言葉にすると非常に簡単に思えますが、しかしその実これがとても難しい。
何故なら核になる部分を変えてしまうと、そのキャラクターやその作品である必要性がなくなってしまい、原作レイプなどと呼ばれてしまうからです。

何せファンは“その作品”や“そのキャラクター”を愛しているわけで、それが望まぬ改変を受けたとあらば、それはもう烈火の如く怒り狂います。ある程度オタク人気の高い作品においては、そういうファンの存在は避けては通れない所です。

 とはいえ、先述の通り、二次元をそのまま三次元に持ち出すなんてほぼ不可能。
必要である改変を、彼らオタクを納得させる形でやるには、何が必要なのでしょうか?

これもとてもシンプルな答えで、それはズバリ『原作愛』です。 
これは「如何に原作をよく読み、愛し、理解しているか」を意味しています。
ただ表面だけをザッとなぞっただけではなく、きっちりと細部まで読み込んでこそ、原作ファンを納得させられる改変が可能となるのです。

 

 ■必要なのは“理解”したうえでの“再構築”

 そんなわけで、“核”を理解したうえで改変しないと大惨事が起こり得るというのは理解して頂けたでしょうか。

勿論別物にして成功する例もあるのですが、レアケースなうえに、今回の趣旨から外れるので、今回は脇によけさせて頂こうと思います。

語るべきところが多すぎて実写版咲-Saki-を語るときりがないので、今回は映画咲-Saki-におけるキャラ改変の具体例を、3キャラに絞って挙げてみたいと思います。

 

宮永咲の場合

主人公・宮永咲

彼女は比較的改変が少なく、基本部分は原作に沿っています。

それでも『二次元世界の立ち回りを三次元でそのままやっても、二次元の時とは大なり小なり差が出る』というのは、咲とて例外ではありませんでした。

原作では「ちょっと人見知りで、あまりコミュニケーション能力が高い方ではない」程度の描写がされている彼女。フィクション世界には“コミュ障”という属性を強調された《コミュニケーション能力に難のあるキャラクター》がゴロゴロいるので、咲-Saki-にそういったステレオタイプなコミュ障キャラクターがおらずとも、咲にはさほど“コミュ障”のイメージを抱いてませんでした(あくまで「さほど抱いてなかった」であり、全く抱いていなかったわけではない)

しかし、実写になると本物の人間が演じているだけあって、コミュ障具合が非常にリアルになっていました。

三次元になったことで、《二次元特有のステロタイプなコミュ障》が比較対象にならず、代わりに我々の周囲にいる人間が基準値になりやすくなったため、原作以上に“コミュ障な咲”となってしまったのです。

 

しかし――だからといって、違和感はありませんでした。
何故なら、宮永咲というキャラクターの根底にあるものを理解し、そこを抑えてくれていたからです。

その上で、宮永咲を構成する“枝葉”たる“コミュニケーション能力”の改変が浮いてしまわぬように、その“枝葉”の周りが整えられていたのも大きな理由の一つと言えるでしょう。

 例えば部室で麻雀を打つシーンなんかが顕著で、咲以外のメンバーも、三次元になったことで多少“普通じゃない”感が増しているんですが、そんな“普通じゃない女の子達”が楽しそうに集まって麻雀を打つ空間がそこには出来上がっていたんです。

原作の清澄高校麻雀部は、緩衝材の京太郎がいるということもありますが、実写の清澄高校麻雀部とは異なる雰囲気のもと集まっています。

それでもどちらも『清澄高校麻雀部』であるとしっくりくるように(あるいは、原作未読者でも『清澄高校麻雀部』がどんな集団かスッと理解できるように)話の流れも原作を踏まえながら、細かな部分をちょこちょこと“実写向け”に変更してあるのです。

三次元化したことで必ず現れる差異を、放置するでも無理矢理なんとかしようとするでもなく、自然に馴染ませることに成功していたと言っていんじゃないでしょうか。

 

 ②藤田靖子の場合

出てきた瞬間から「藤田プロだ!!!そのまんま、藤田プロが三次元にやってきた!!!」と思わされていた藤田靖子さんですが、冷静に考えると全然別のキャラクターなんですよ。

凄いイケイケの格好をしていて「まさに藤田!!」となったんですが、よく考えると原作ではあんなド派手な髪色もしてないし、もっとクールなんですよね。

それでも「これは藤田靖子!」となってしまうキャラでした。

その最たるものが「This is 麻雀……!」発言で、原作の藤田なら絶対言わないであろうセリフなんですけど、しかし実写の藤田ならば言うであろうというセリフ。

これはしっかりと“映画版藤田靖子”としてキャラが立っていることを意味しています。
だからといって“藤田靖子という名を冠したオリジナルキャラクター”には見えず、きちんと“藤田靖子”でもあるという、何とも簡潔な日本語で説明するのが難しい存在なのです。

 原作のキャラクターをベースにし、「これは藤田プロだ」と思わせる程度に原型を残し、しかしそれでいて「映画版の藤田プロ」という存在に昇華させる――

藤田靖子というキャラクターの“核”をきっちりと抑えたうえで、実写映えするアレンジをした(見た目だけでなく、三次元化の際の避けられぬ改変を上手く使いこなすための性格の改変なんかも含む)からこそ、成し得たのだと言えるのではないでしょうか。

 少なくとも、ただ原作の表面をなぞり同じセリフを言わせるだけでは、ここまで“藤田靖子”にはならなかったのではないかと思います(名前が同じの全くの別キャラクターになってた場合は言うに及ばず)

 

 池田華菜の場合

全体的にセリフ・役回り・性格なんかは原作に忠実だった池田ですが、若干原作とは異なるシーンがあります。

それは、池田の見せ場であり長野県大会決勝編屈指の名シーンでもある「そろそろ混ぜろよ」の一連の場面です。

原作では、図々しいくらい精神の強い華菜ちゃんですら心が折れるほどボッコボコにされてながらも、それでも諦めずに立ち向かう“力強く格好いい池田”が描かれており、その表情もドヤ顔やキメ顔でした。

しかし映画版の「そろそろ混ぜろよ」には、ドヤった決め顔の雰囲気どころか力強さすらありません。

代わりに、己を奮い立たせ、心を折られてなお楽しいぜと言わんばかりに笑顔を作る“麻雀を楽しむ池田”の姿が描かれていました。

 

これは、三次元にする際の云々による改変ではないでしょう。
映画版では原作の「麻雀を楽しむ」という部分をメインテーマ持ってきており、咲と和のオリジナルの激励シーンや、衣の打牌を見て微笑む藤田プロなど、様々なシーンがそのテーマに合わせて追加されています。

おそらく、池田の「そろそろ混ぜろよ!」も、その一環しょう。

実写の池田は、キャプテンの「何事もそうやって楽しんでいきたいわ」に対して、「無理!」だの「これは楽しめません」だのとは言いません。

本気で勝ちたいと思っているし、心を折られそうになってはいますが、それでも楽しむ気持ちは基本的に持ち続けます。

 この「本気で勝とうとしている」「一方で、麻雀自体を心から楽しんでいる」というのは、ラスボスである天江衣を除き、全キャラクターに共通している要素となります。

原作では多種多様なキャラクターがおり必ずしも両方を備えているわけじゃないのですが、映画版ではテーマをわかりやすくし、ラスボスである天江衣の立ち位置をオンリーワンにするために、他のキャラはスタンスの統一が図られているのです。

原作では「決勝に来れたから十分、あとは楽しもう」という側面が強い蒲原智美率いる鶴賀学園が、映画版では「大丈夫、先輩を信じよう!」と言っていたり敗退決定直後に智美が大きく頭を垂らしていたのも、天江衣の異質さを際際立たせるべく他の19人を『麻雀を真剣に打っているし、勝ちたいし、楽しんでいる』という風にするためだったのではないでしょうか。

 細かなシーンを挙げればキリがありませんが、原作と同じシーンでも意味合いが変わっているシーンが多々ありました。

池田なんて、代名詞と言える決めのシーンで改変されたわけですからね。
しかし、それでも「こんなの池田の皮をかぶった偽物じゃないか!」とはならず、また「突然原作の池田が全然“らしくない”ことやって違和感バリバリ」ともならず、“実写版池田”として「池田なら自然にこういう風になる」と思わせてくれました。

 これもやはり、池田華菜”を“池田華菜”たらしめる核の部分はそのまま残しつつ、作品テーマに沿って自然に改変されていたからでしょう。

 

 上記の①②③からも分かるように、核を理解したうえで細部をストーリーラインや三次元に沿った改変を、実写咲は行っていました。

それこそが、原作ファンをして「再現度が高い」と言わしめている理由でしょう。

二次元美少女を実写化にするコツは、『“二次元と三次元は別である”ということを理解し』『そのうえで別物になりすぎないように原作をしっかりと読み込み核となる部分を抑え』『適切な改変を加え完成度を高める』といった所ではないでしょうか。

 

勿論「核を理解しているか」だとか、よく言われる「原作愛がある」だとかいったものに、明確な基準も客観的に判断する方法もありません。

エスパーじゃねえんだから、監督がどう考えていたかなんて、分かるわけがないのです。

それこそ、僕みたいな奴が「これはすごい!核になる部分を抑えた上で改変をしているので、“○○”として受け入れられると同時に“実写版の○○”としても受け入れられる!!監督が愛を持って作ってくれてるだろうなあ」なんて思っている一方で、「雑に改変された!許せない!」「全然原作の魅力が伝わってこない。監督は本当に原作を読み込んだのか?」と思ってる人がいてもおかしくはないでしょう。

なにせ制作陣は嘘でもリップサービスで「原作をしっかり読んだ」だの「愛情込めて作っただの」だの言うでしょうし、我々ただの受け手には、作り手の気持ちに関する真実なんて知りようがないのですよ。

 

しかし、それが何だと言うのでしょうか。

『実写化』なんてした時点で、絶対に一定数は何を出されようと納得できないファンというのは存在します。

良いか悪いかは別として、「二次元を三次元にしようとする時点で、二次元への敬愛が足りない」と言わんばかりの主義のオタクは山ほどいます。

そんな人にも評価されようとして軸をブラしてしまうくらいなら、最初からどうせ無理な人達は捨てて、残りの原作ファンに向けて作った方が現実的です。

そして、良いものを作ればきちんと評価するファンにとって、大体『キャラの核を理解していると感じたかどうか』と『作品が面白かったかどうか』は深く関わり合います。主観で「おっ、この監督は分かっているな!」とか「あ、この作品の関係者は原作のことすごく好きだな!」と判断した時、大体は作品も高評価になっているのです。

 

 だったら、やはり、素直に原作に敬意を払い、愛を込め、キャラクターをしっかりと三次元テイストに改変することが、高評価を生む一番の近道なのではないでしょうか。

主観で判断されてしまうため、「こういうことをすれば、原作愛があるとみなしてもらえる」や「ここだけ抑えておけばOK」というコツのようなものが存在しません。

であれば、きちんと想いが届くように願いながら、本当に真摯に想いを込めて改変することが、一番の近道でしょう。

 

 ■終わりに。

咲実写の優秀だった点に関しては、語りだしたら止まらないくらいあるのですが、口頭で喋り散らすのは出来ても、言語化して短く纏めるのが非常に難しいものです。

死ぬほど 難産だったわりに、自分でもイマイチしっくりきていません。

壊れるほど愛している想いの1/3くらいは届いてくれているでしょうか?

 

そうであっても、そうでなくても、是非一度、実写版咲を目にしてみて頂きたい。

百聞は一見に如かず。

伊達に絶賛されているわけではない、“原作そのままトレスしているわけではないし、色々と改変はされているのに、それでも『あのキャラが忠実に実写化されている』という気分になれる”という一見矛盾した感覚を、是非とも味わってみて下さい。

原作未読の方は、いっそ映画を見てから原作に行ってもいいかもしれません。

 

ドラマのブルーレイもいいですが、特に絶賛している映画版は、まだブルーレイになっていません。東名阪といった主要都市での公演は終了してしまいましたが、追加公演で地方を回り続けています。全国様々な場所でロングランしたガルパンとはまたちょっと異なる、公演期間の長さです。

そうしてじわじわ上映劇場が増えるだけの作品です。
是非とも一度は、スクリーンで味わって頂きたい。

そして、無限に語れる魅力というのを味わって、私の分までその魅力を言語化して頂けたら幸いですw

もしかしたら、スランプ抜けて月日経ったら私自身でも語り直すかもしれませんけどねw